創業60年以上の阿吹運送だからこそできる!楽器輸送・不用品回収・突発配送に対応
代表取締役 阿吹成駿
Release: 2025.08.27
Update : 2025.11.04
一般貨物運送業、一般廃棄物収集運搬、産業廃棄物収集運搬、ロードサービス
事業紹介
有限会社阿吹運送店は、設立が1960年。創業者は祖父で、父が2代目、私が3代目です。
創業当時の写真が残っていて、立っている男性が祖父です。はじめはリアカーを引いていました。戦後間もない頃で、芦田川の砂をスコップで積んで配ったりしていた時代です。そこから馬車になり、三輪トラックになり、という流れで発展してきました。昔は「初荷(はつに)」といって、年が明けて初めての荷物はお祝い事。旗に「初」と立てて、ワイワイしながら運んでいた、そんな頃の写真です。

今の主力は2トン・4トンの比較的小型のトラックによる配送です。2トン平ボディ、2トン箱車、4トンのウィング車(箱が開くタイプ)、4トンのユニック(トラックにクレーン付き)、4トンダンプ(土砂の運搬)などを用途に応じて使い分けています。ここには写っていない車両として、ロードサービス用の積載車(車を積んで走るトラック)も保有しています。ロードサービスは最近始めた新しい取り組みで、これが佐藤さんと知り合ったきっかけでもあります。
運ぶものは「梱包されていない」「かたちが不揃い」「長尺」といった、一般的な宅配イメージから外れる“ちょっと難しいもの”が多いです。例えば、学校の吹奏楽部の楽器運搬。中学・高校のコンクールや定期演奏会に合わせて、学校から会場へ、終わったら学校へ。福山市内だと体感では7割くらいの学校をお手伝いしているんじゃないか、という感覚です。
楽器運搬を始めたきっかけは、父の担任の先生(当時、吹奏楽部の関係者)から「楽器を運べないか」と頼まれたことでした。まだ経験がなかった頃ですが、創業者の兄弟の一人が音楽をしていて楽器の扱いに明るく、「やってみよう」ということでスタートしました。
最初は1校だけでしたが、先生は転勤があります。赴任先でも引き続き頼んでくださり、新任の先生が「前はどこに頼んでいましたか?」と聞いてくださる流れで、阿吹運送に声がかかる――そんなリレーで少しずつ広がっていきました。
ノウハウは、現場での蓄積です。調律機構や駆動部など繊細な箇所は養生や当たり防止を徹底。太鼓類は皮面に尖ったものが触れないよう特に注意します。毛布で包む場合も、楽器同士が触れない積み方を徹底します。
結局のところ“感覚”と“職人気質”の世界で、現物を見て「ここが危ない」が見えてくる――その目を持った人間が現場にいることが強みです。

外注は基本的に難しい案件が多いです。段ボール3つ、といった四角い梱包物ではなく、長尺・不定形・非梱包のものが中心なので、丸投げはリスクが高い。外部にお願いする場合でも、うちが積み込みに顔を出したり、うちの道具を持ち込んで「これ返してくださいね」といったやり取りになることが少なくありません。
ピアノ運搬などで相談することがある協力会社(シャルダン商会さん)にも助けてもらいますが、こちらが一杯の時は先方も一杯、ということも多く、ここはニッチに特化しているがゆえのネックでもあります。
現行の車両は20台。うち、突発・難易度高めの案件に即応できる体制を常に維持しています。外注は基本しない・しにくい前提で、自社の現場力で担うのが基本方針です。

住宅の材木(プレカット)の運搬もあります。産業廃棄物の収集運搬では、鋳物工場で出る削った砂のようなものを1トンのフレコンバッグに詰めて、それをユニックで吊って処分場へ。数年前に福山で大雨があった際には、山手地区のポンプ不調が水害の一因になっていました。夜の作業で、22時とか24時の時間帯に現地でポンプを吊り上げて持ち帰り、入れ替えを行ったこともあります。
工場シャッターの部材のように長尺物(8メートル級)を運ぶこともあります。現場では職人さんと一緒に取り付けの段取りまで踏み込むケースもあります。イベント系では、福山の「菊花展」へ鉢植えの菊を搬入。ホロ付きトラックの荷台に砂を敷き、鉢を砂で固定して倒れないようにして運びます。バラ祭りのバラ運搬、JFEの太鼓部の太鼓運搬など、地域行事にもよく出動しています。
不用品の一括回収・処分のご依頼もあります。ビフォーアフターの写真が分かりやすいのですが、「この部屋をまるごと片付けてほしい」という依頼に対して、丸ごと回収してスッキリさせる、といった仕事です。
少し余談ですが、採用が厳しい時期に社風を伝える目的で、Instagramでコミカルな投稿もしていました。体を張ってやってみたところ、求職者から「雰囲気が良さそう」という声が増え、結果として効果はあったと感じています。運送の仕事内容そのものとは違いますが、「人となり」や「会社の空気感」も含めて届けるのは大事だと思っています。
社業の強みや独自性
強みは二つあります。
一つ目は「特殊物・長尺物・非梱包物」の運搬対応力です。楽器のように繊細で大手が敬遠しがちな品目、箱に入っていない不定形なもの、現場での吊り作業が必要なもの――そういう“難しめ”の案件を日常的に扱っていること。梱包されていなくても、現場判断で安全・確実に運べる体制と経験があります。
二つ目は「突発・単発案件への即応性」です。一般的な運送会社は月〜金で定期配送が組まれている比率が高いのですが、うちはそれが売上の2割程度。残りの8割は「今日ここからここへ持っていって」で完結する単発仕事です。「今から行ってほしい」という依頼にも、やりくりして応える体制を組んでいます。

具体例を挙げると、昨日の夕方、松永から愛知まで当日中に届けてほしい、しかも4トン2台で、という依頼がありました。元の発注側と受注側の工場で日付の勘違いがあり、急遽手配が必要になった案件です。最終的には流れましたが、「やろうと思えばいける」体制を常にキープしていることが大事で、ロードサービスの即応性とも親和性が高いです。
突発に対応するには、人を最低一人はフリーで動けるよう確保しておく必要がある。最後の砦は私、という前提で、事前に読める案件は私が出なくて済む範囲までに調整します。翌日に回せないか、前日に積めないか――お客さまに事情を説明しながら組み替える。パンパンの日もあれば、ドライバーが1〜2人空いている日もある。その揺れを前提にオペレーションを組むのが、うちのやり方です。
単発のお客さまはだいたい60社ほど。噛み合うと売上はきちんと積み上がりますが、もちろん波もあります。この「読めなさ」を受け入れた上で、柔軟に回すのが独自性です。他社がすぐに真似しづらいモデルだと思います。
事業所の歴史
祖父が創業したのは1950年ごろ。戦後の福山で、リアカーからのスタートでした。芦田川の砂をスコップで積んで配るところから始まり、やがて馬車、三輪トラックへと移行。新年最初の荷物「初荷」を旗を立てて祝う――そんな時代を経ています。

会社としての設立は1960年。以降の主なトピックは、1973年に引っ越しと産業廃棄物収集運搬の開始、1988年に精密機器・楽器輸送の開始、1992年に父・阿吹正宏が2代目として代表就任、そして2023年に私が3代目として代表を引き継ぎました。いま就任から2年半ほどです。
就任に至るきっかけ
私は今35歳。大学は兵庫で、卒業時に福山へ戻ろうと思っていました。生まれ育ちも会社の近くで、「いつかは継ぐだろう」という感覚はずっとありました。父に相談すると「他人の釜の飯を食ってこい。帰るのはいつでもできる」と。そこで2年間、人材派遣の会社(グロックという会社)で働き、25歳で戻りました。
現場に入り、27歳ごろには「父が65歳になったタイミングで交代しよう」と話がまとまりました。一方で、中小企業家同友会の青年部に入って、周りの先輩方――例えば三島さん――から「交代は早い方がいい、いつやるんだ、今すぐだ」と背中を押され続けたんです。決めたはずが何も進まないまま、気づけば父の65歳が目前。そこで一念発起し、同友会の報告の場に父にも来てもらい、皆さんの前で「バトンを受けたい」と伝え、公言しました。そして自分の誕生日に、正式に交代。

正直、前日は逃げたいくらい不安でした。父の背中を見ながら「これからこの孤独と戦うのか」と重圧でいっぱい。でも交代して経験が積み上がるにつれ、「早めに交代して良かった」と今は思えています。コロナ明けで需要が戻るタイミングだったことも追い風になりました。自分の力だけではないと半分思いながらも、会社をちゃんと存続させられている感覚が自信になっています。
仕事のやりがい
きれいごと抜きで言うと、私は数字が上がることにやりがいを感じます。もちろん、社員が笑顔でいる方が自分も楽しい。でも最終的には自分のためでもある。社員の笑顔が自分の働きやすさに直結するから、そういう職場環境を作るし、それがまたやりがいになる。
私には左手に障がいがあり、幼い頃から「周りと違う」という感覚がありました。だからこそ承認欲求が強いのかもしれない。普通の人より優れていない、とどこかで思ってしまう分、普通以上の結果を出したい。お客さまに褒められること、良い会社だと言われること、目標数字に届くこと――そういうエピソードの全部が、自分のやりがいです。
仕事で大切にしていること
経営理念を軸に置いています。うちの理念は「安全の追求」「感動の創造」「感謝の実践」の三つ。
安全の追求は、運送業の根幹。どれだけ急ぎでも安全最優先。
感動の創造は、AからBへ“ただ運ぶ”だけで終わらせず、「阿吹運送に頼んで良かった」と言ってもらえる物語を生みたいという意思。
感謝の実践は、私たちは誰かの汗の上に生きている、という前提です。服も食べ物も、誰かが働いているから手元に来る。自分たちにはトラックで運ぶ力がある。その力で社会に関わらせてもらっているのだから、「おかげさまで働かせてもらっている」という気持ちを忘れないこと。
面接でもこの三つに共感できないなら来ないでくれ、と伝えます。理念に照らして意思決定をするので、ときに感想文を書いてもらうとか、勉強の機会もある。勉強したくないからトラックドライバーに――という人にはきついかもしれません。ただ、目指す状態のために必要だからやる。そこに共感できないと、不平不満で終わってしまう。だから最初に確認します。

先代は損得より善悪で判断する人でした。たとえば、あるドライバーが私用で飲酒運転をして免許取消になったとき、就業規則的には解雇が妥当かもしれませんが、先代は「55歳で日本語の読み書きも十分でない、足もない。この人を放り出したら本当に路頭に迷う」と考え、給料を下げ、横乗り(助手)として2年間サポートして再取得を目指させました。本人は「恩があるから死ぬまでここで働く」と言ってくれています。
自分なら規則を盾に切っていたかもしれない。先代のこうした“人を見る判断”は、私の意思決定に深く根付いています。
仕事の大変な面
やっぱり「人」です。価値観が違う中で、どう権限移譲するか。任せると放置は違う。言いたいけど今言うとモチベーションが下がるよな、という場面もある。どのタイミングでどう伝えるか、日々勉強です。ぐっと我慢することも多い。
今後の目標
新しく立ち上げたロードサービスを、会社の柱に育てていきたいです。保険代理店さんや車屋さんに営業して、「レッカーや積載が必要なら阿吹運送へ」と認知を広げています。社員の家族のつながり経由で、佐藤さんの車屋さんに出会い、そこから同友会のご縁が広がって、実際にレッカーの案件を走らせてもらうこともできました。まだ始めて一年足らずですが、ここをしっかり伸ばしていきます。
ロードサービスを始めた決定打は、ツーリングの当日、同行者のハーレーがバッテリー上がりでドタキャンになった出来事でした。ハーレーのディーラーに集合すると、キャリアカーでバイクが運ばれて来て、「あれは喜ばれるよ。阿吹くんのところは突発対応ができるし、お酒も飲まないなら自分でやればいい」と背中を押されました。そこから業界研究を開始。
同友会のつながりで、売上8,000万円規模の板金屋を7年で17億まで伸ばした会社を訪問した際、「積載車、うちのを乗って帰りなよ。580万円だよ」と言われました。先代に一報を入れると「その場のノリで買うな、よく考えろ」と。当然の助言です。ただ、ここで決断しました。買って帰った以上は後戻りできない。もともと自分もどっちかっていうと石橋を叩いて叩いて渡らないタイプなので、多分そのきっかけがないとロードサービスやってなかった、買って帰ってなかったら多分諦めてたんですよ。
「儲からんよ、厳しいよ」というような否定的な声もありましたが、仕事ゼロの状態から営業をかけ、意地でもやっぱり行動して数字を作り上げていけたので、最終的には良かったかなと思います。
目標へ向けての課題
課題は「仕事量」です。損益としては黒字は出ていますが、まだ私が現場に出る前提で成り立っている状態。専属の人員を一人抱えて常駐させるには、もう一段ボリュームが必要です。理想は、専属ドライバーが毎日1〜2件は安定して動ける水準まで案件を増やすこと。仕事が増えれば採用も同時に回していく必要があります。仕事量の確保と採用を並走させる――ここが当面の一番の課題です。
入会のきっかけ
入会のきっかけは、仕事のつながりで佐藤さん経由です。ロードサービスを始めるにあたって、保険代理店さんや車屋さんに営業していたところ、社員(パート)の旦那さんが佐藤さんの幼なじみで紹介してくれて、ご縁が広がりました。その後、同友会で面識もでき、YEGへのお誘いをいただいて入会しました。
今年度は同友会(青年部)の県の委員長、支部のナンバーツー、さらにトラック協会の会計と、役を受けすぎていて正直忙しく、YEGの優先順位が少し下がってしまっているのが現状です。出ないといけない、出たいという気持ちはあるのですが、今は十分に参加できていない、というところです。
入会してよかったこと
まだこれから見つけていきます。現時点で「悪かった」とは思っていません。
入会後の良き出会い
今は新入会員で、これからだと思っています。ブレイク(委員会)の件でご連絡をいただいたりはしていますが、現時点では「特にありません」とお答えしました。ここから良い出会いをつくっていきたいです。
これから出会いたい人
特定の「こういう人」という希望はあまりありません。父から「会社は社長の器以上に大きくならない」と言われてきたので、人間力や器を広げる必要があると感じています。そのためには、自分と違う価値観の人に出会って、いろんな経験・体験を積むことが大事。誰か一人のイメージより、「自分の知らない世界を持っている人」に出会って成長していきたい、という感覚です。
自己紹介
話していて伝わったかもしれませんが、わりと論理的に考える左脳タイプ。キラキラした夢を語るタイプではなく、数字に強く、根拠にもとづいて進めるのが好きです。性格的にはずっとナンバーツー向きだと思ってきました。人を引っ張る力より、目標に向けて計画的に進める力のほうが強い。トップという役割はしっくり来ない時期もありましたが、今は楽しくやれています。

実は一人が好きで、孤独に生きていくほうが楽だと感じる性格です。だからこそ「それじゃ経営者としてダメだよな」と自分を鼓舞して、いろんな場に出ています。大人数の雑談では聞き役になりがち。仕事モードに入ればペラペラ話せるのですが、自由に「面白いこと話して」と言われると得意ではないタイプです。Instagramのコミカルな動画も、その場のノリではなく、考えて時間をかければできる、という感じですね。
プライベート
土日を含めて仕事に就くことが多いです。案件が1件でも入っていると点呼やアルコールチェックが必要で、会社に出ることになります。ロードサービスも始めたので、今の“趣味”は売上を上げること、ロードサービスを伸ばすこと、みたいになっています。
ロードサービスは最近は私自身も現場に出ます。大型案件で全国を走ると、ご当地グルメを探すのもひそかな楽しみ。東京に行けば築地で海鮮丼、高松ならうどん。しまなみ海道や瀬戸大橋を渡るとき、「これを仕事として経験できるのは嬉しい」と旅行気分になる瞬間もあります。
何もない時にやりたいことでいうと、走り島に行ってもりで魚を突くのがすごく好きです。3年ほど前から年に1回、友達と行くのが楽しみで、元々泳ぐのが好きだったのもあってハマりました。たまにバイクでツーリングにも行きます。
テニスは中高大とやって、社会人になってからも月1で集まったり、スクールにも通っていましたが、28歳くらいまでで今はほとんどやっていません。
参加者からの質問、提案、感想など
阿吹さん
大人数の場、実は苦手なんですよ。YEGの飲み会とか、名刺交換の後「何しゃべる?」ってなるタイプで。めちゃくちゃ喋れる人を本当に尊敬します。
でも会社の話ならできます。自分の悩みとリンクさせて「社員さん、こういう時どうしてます?」みたいな会話は大丈夫。YEGでもそういう会話ができるのか、まだ掴みきれてない感じです。
橋本
交流を重ねればできると思いますけど、最初は難しいですよね。僕は「親睦」より「研鑽」寄りが好きで。入会3年目ですが、序盤は“飲み会多い”印象しかなくて。3月の大きいキックオフも、貸切で大騒ぎ。声が聞こえないくらいで、「これに入るのか…早く帰りたい…」って思ったくらい(笑)。
高橋さん
プロフィール拝見して、僕と同い年でした。しっかりされてる印象だし、喋りも上手。自分はそこまで喋れないので…。
阿吹さん
仕事では“プライベート3:仕事7”くらいの感覚で話を聞き出す役が多いです。自分の話をするより、相手の話を聞いて応じるタイプ。だからプライベートだけの雑談は難しい。でもYEGに入って、取材や幹事の仕事を通じて人と関わる場面が増えました。忙しくても出れば得るものがある—入ってよかったと感じています。
橋本
役が外れたら少し楽になりますかね。
阿吹さん
いや、外れたと思ったら次の役が来ます(笑)。一生抜けられないのか…って思う時も。
橋本
YEGは副会長くらいまではどなたにでも機会がある印象です。JC(青年会議所)卒業された方が来ることも多いイメージがありますね。
阿吹さん
JCの人が多いイメージで、礼儀とか厳しそうでちょっと身構えます。
橋本
今、会員数も多くて、3年後には大きい大会の主催もああったりで、理事会にいると根っこから変えるきっかけになる1年にしよう、という空気を感じます。
阿吹さん
YEGに入って、坂本さん・高橋さん・橋本さんと名刺交換できたのはありがたいです。顔見知りが増えるだけで居心地は良くなる。同い年がいるのもうれしい。またどこかで話せたら面白いですね。










